ロシア総括
僕は今、ロシアにいる。サンクトペテルブルグの空港に降り立ったのが、22日。そこから車で三時間ほどかけて、ノブゴルドに来た。ノブゴルドは1000年以上の歴史を持つ古い街。街の中には、小さなクレムリンのようなものもある。この古い歴史のある街で、二年に一度、青少年のための演劇フェスティバルが開かれている。「KINGFESTIVAL」と冠されたこのフェスティバルは、フェアリーテイル、日本語では昔話のカテゴリーに入る作品ばかりが集うフェスティバルである。

ロシアに来たのも初めてで、しかもこんな小さな街にくるなんて、なんだか不思議だなあと思う。これから一週間ほどかけて開催されるフェスティバルの演目を毎日、三つくらい見るのがこれから数日の予定。こちらに到着してすぐに、エリチィン元大統領が死んだという事もあり、テレビでは荘厳な葬儀の模様がずっと流れている。街の天気は想像した通り、曇り空が多い。街全体が寒さとともに喪に服しているような印象を受ける。

劇場や建物は例外なく、古い建物ばかりだ。そこで行われる演劇も旧時代から続くテキストを中心としたスタイルの演劇だ。だが、役者の言葉を操る力は本当にうまい。なので、これはこれでいいような気もしてくる。

こちらでは沖縄の下山さんや韓国の金さんとも一緒なので、それほど大変な事はない。ただ、三食ともホテルでとる事になっているので、ホテルの食事が毎回、ほとんど同じメニューというのがまいる。が、それといって別に深刻な問題にはならない。無い物ねだりをするよりもそこに身体を合わせて行けばいいわけだ。食べているものは、ジャガイモと、衣の着いたピカタのような肉や魚料理、あとはキャベツのピクルスか、リゾットが大概一枚の皿の上で一緒になっている。他には黒いパンとマヨネーズかチーズ味のサラダ。それにジュース、以上だ。昼間の方が夜より少しだけボリュームがある。あまり過剰な塩味もついていない。非常に健康的。質の良い監獄に入っているような気分だ。しかし、監獄では酔っぱらう事は出来ない。だからホテルの方がずっといい。ロシアのお酒は、もちろんウオッカも有名だが、コニャックやビールもおいしいし、あと、ワインも少し甘いがなかなかいける。ただビールはほとんどの場合冷えてはいない。なまあたたかい、中途半端なビール。日本のあのグラスまで冷えたビールが懐かしい。人々は外で昼間からビールを一杯やっている。僕の感覚からすると、外でビールなどはのめないほどの寒さなのだが。寒い気候と冷えていないビールの因果関係を探ってみると案外面白いかもしれない。僕は金さんに誘われて毎晩ウオッカを飲んでいる。こちらで飲むウオッカは、やはりとてもおいしく感じる。酒はその場所で、そこの空気とともに味わうのが一番なのだ。

テレビでは相変わらず、エリチィンの葬儀が続いている。まるでオペラのような葬儀をコマーシャルもなしに延々と流しているから、おそらく国営放送なのだろう。こちらでは今は自由経済になっているそうで、昔に比べて物価もかなりあがったようだ。ルーブルは国外に持ち出しが禁止されているし、ルーブル以外は町中で使用する事は不可能なので、僕はルーブルにまだ換金していない。それでも、あまり買いたいものもないから困る事もない。一応、外から一目見た感じではわからないが商店のようなものもある。どんなところでもあたりまえに生活はあるのだ。

ロシアの人々の人柄は、アメリカ人のように目が合うとニコリとするような愛想はないが、素朴で心のあたたかい人たちだと思う。僕たちのコーディネイトをやってくれているのはオルガという名前のロシア人だ。役者で公演もしながら僕らの世話を焼いてくれている。表情があまり変わらないので表面的にはわからないのだが、舞台を見るとユーモアセンスもある。とてもいいやつだ。

ロシアの古い街に自分がいると、自分が古いお酒の樽の底でいるような気分になってくる。そこで自分の中の何かが熟成されて行く。日常の価値観がひとつひとつゆっくりとだが、確実に変化していく。やはり、世界は一つではない。自分が見ている景色でも、それはけして一つではないのだ。テレビではオペラのソロ歌手のような司祭が朗々とした声で宗教家を歌っている。大勢の人たちに囲まれたエリチィンは、その歌声すら聞こえないようで目覚める事のないまま永遠と眠っている。みんなは彼に子守唄を聴かせているようだ。疲れなどみじんも見せる事なく葬儀は延々と続いている。なんとなく「これは劇なのだ」という錯覚をおぼえる。テレビの中で行われているこれは今、ロシアで行われている古色蒼然とした演劇なのだ。私たちは観衆であり、そのクライマックスをただじっとテレビの前で待ちつづけている。


劇場で演劇を見る。ほとんどがロシア語。見ていれば話の内容はくらいは想像がつくが、会話の意味はまったくわからない。時折眠りに落ちそうになりながら暗闇で目を凝らしている。芝居が終わればバスでホテルに戻る。車中では他のゲストたちとたった今見て来たばかりの芝居について、ああでもないこうでもないと議論を交わす。そして、あの作品は良かったなどと情報を交換する。ゲストはほとんどが世界中で行われているフェスティバルの芸術監督たち。意外なようだが、こういう状況で耳にした作品が口コミで世界を回る事になる。どの世界も案外狭い。ホテルに戻ると食事。毎回同じような食事。そしてまた時間になるとバスに乗り込み劇場へと向かう。その繰り返し。それらはおどろくほどシステム化している。私たちはただ作品を見続け、議論し、情報を交換する。いい作品というのはその人の尺度でしかはかれないものだ。みなそれぞれの芸術監督は観点が違う。それこそがフェスティバルの個性であり、またそれでいいわけだ。いや、そうでなければならない。芝居の善し悪しというのは民主主義で決まるものではない。時に強力な意見がすべてにおいて優先することもある。それでこそ、あるフェスティバルの質というのが維持されていくのだ。
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by nakadachi2 | 2007-04-29 07:43 | TACT/FEST