親元を離れて知ること
日本をたつまえにある人と話していたのは「日本の演劇は東京への一極集中である」という事だった。東京に行って、成功を収めることが出来たらあがりというのが、これまでの日本の演劇界であると彼は言った。「でも、そんなの、つまらないよね」と彼は続けた。偶然にも彼はエディンバラの演劇祭を見に行ってきた直後だったので、世界へ向けて舞台をやるという可能性について、僕らの話は大いに盛り上がった。そして、僕は、日本を離れた。

モントリオールで感じたことも、世界の国境を越えていく舞台表現という文化と、その可能性だった。いくつかの舞台は日本では観ることのできない表現で、とても素晴らしかった。それに接した事で僕は近来になかった感動をおぼえた。10日近くの充実した日々を送り、帰国の途についた自分の目に入ってきたのは、成田の空港のテレビで見た国会中継であり、首相の姿だった。新聞の一面で踊る「阪神優勝」の文字。そのどれもが、驚くほど自分の心を揺さぶらないのがわかった。この国を一歩外に出てみると、今まで重要に思えていたことが、さほど重要な意味を持たないのだと知る。それがわかっただけでも、今回の旅の収穫は大きかったと思う。

多様な文化との出会いが、また新たなる文化を生み育てる。そういった意味でも、日本には日本人が多すぎる。価値観の違いが人を分断し、その押さえきれない力は人を暗部へと向かわせる。人は誰もが違う生き方をする、多様な考え方や文化をかんようしあう。お題目としては理解しているつもりでも、実際に色んな国を訪ねて感じる事とはまるで違う。こんなにも日本人の閉鎖性を感じたのは初めての事であった気がする。日本には日本人ばかりが溢れかえっている。都知事が外国人排斥論をぶちあげても、声高に否定する日本人は少数派である。相撲の横綱が外国人になる。メジャーで日本人が活躍する。そんな時代に、ことさらに外国人は怖いと印象づける必要などない。どこにだって、色んな人がいる。日本人にも色んな人がいる。

僕はやっぱり東京を目指そうとは思わない。演劇村の村長になりたいのでもない。何万人もの観客を動員するのが目標というなら、キオはすでに、たとえそれが子どもだとしても年間で数万人の観客を動員している。マスコミに踊らされて不特定多数に向かって語りかけるのではなく、目の前にいるひとに伝えるのが、やっぱり演劇なんじゃないかと思う。東京のかわりに僕らは世界を目指す。国境を越え、世代を超えた表現を体得する事を目指していく。

もちろん自分は日本人である。日本人が日本の文化を知っているのは当たり前の事である。しかしながら、今の日本人が文学、歌舞伎や狂言、能、茶道、華道、宗教、絵画、歴史、などをどれほど知っているというのだ。出来るというのだ。語れるというのだ。日本の演劇はどこから始まった。それを道を歩いている誰が知っているというのだ。誰が演劇を必要としているのだ。自分はどこで生まれ、何を考えて育ち、そしてどこへ向かおうとしている人間なのか。その事を、これまで以上に知っておく必要性がある。
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by nakadachi2 | 2005-10-01 06:11 | TACT/FEST